・ピアノで練習に参加
戦後間もなく、日本で本格的にバレエ団創設が始まったころ、レッスンでは生のピアノが使われていた。テープレコーダーなどがなかったからだ。私は、ひょんなことから後に大バレエ団を率いる谷桃子さんや貝谷八百子さんにこれを頼まれた。アルバイト感覚だったが、何カ月もレッスンに付きあうと一人ひとりのダンサーと息が合ってくる。各場面をどんなテンポで演奏すれば良いか、きめ細かに分かる。ふと「棒も振れたらいいな」と思った。ダンサーにも「あなたが指揮してくれたら安心」と望まれた。
先輩の指揮者に指揮法の基礎を教わって1955年、貝谷バレエ団の「コッペリア」公演で初めて指揮台に立った。道筋が普通と違ったのが、かえって良かった。欧州の劇場にはデビュー前の指揮者が、オペラやバレエのリハーサルのピアノを弾く制度がある。カラヤンやショティら著名な指揮者も皆、この「現場修業」をした。はからずも、私はこれと同じ経験ができたのだ。
・三つの「顔」がだいご味
以降、数多くの公演にかかわったが、心に残るのは、モノのない時代に皆で必死につくり上げた公演に多い。特に51年、貝谷バレエ団が歌舞伎座で上演した「シンデレラ」は思い出深い。45年にポリショイ・バレエ団が初演したザハ一口フ振付版を、乏しい資料をかき集めて舞台にのせた。楽譜は、モスクワの劇場からマイクロフィルムを借りて自分で引き延ばした。すると「ここでシンデレラがベールを取る」など向こうの指揮者のメモが残っていたりして大きな助けとなった。
この時の貝谷八百子さんのシンデレラは忘れられない。ことにシンデレラのポケットから、ぽろりとガラスの靴が落ち、持ち主が明らかになる場面の戸惑いや喜びの入り交じった表現。当時のダンサーは、高いジャンプなどのテクニックはそうなかった。けれども何かを観客に伝えようという情熱は、今の比ではなかったと思う。
バレエの指揮には三つの顔がある。まず前奏など演奏だけで舞台を盛り上げる場面がある。次に片足で30回以上も回るグラン・フエッチなど踊りの見せ場。踊りを支えることに徹し「最初の二回転はダブルにするから合わせて」「最後は八小節分リピートして」などダンサーの要望に柔軟に応える。三つ目は、音楽も踊りも共に重要な場面。この三つの「顔」を共にあるべき姿にするのがだいご昧だ。同じバレエ音楽でもコンサートの演奏の指揮は全く違う。
・研究にものめり込む
次第に楽譜の収集など音楽の研究にものめり込んだ。何しろバレエの楽譜は原則、出版されていない。書店で買える楽譜は指針であって、上演時のスコアは劇場やバレエ団によって違う。私は「白鳥の湖」のオーケストラ用スコアを五セット、「ジゼル」は四セット、「ドン・キホーテ」を三セット持っている。これらを読み解くと、面白いことが分かる。
例えば「パテ夕」というバレエの音楽には八人、「ドン・キホーテ」には十人の作曲家がかかわっていた。初演時は一人なのだが後世、改訂が繰り返されるにつれ多くの作曲家の手が入った。この部分は誰それの曲を無断で借用したなどの裏話もあまた浮かび上がる。残る指揮人生では、オーケストラを育てたい。私は主な演目のスコアが頭に入っている。だから今年七月、初の海外公演としてソウルで韓国国立バレエ団の指揮をした時、少しリハーサルを見ただけで、これは三幕を二幕仕立てにしてここをちょっと詰めてあるといった全体像が分かった。けれども日本ではオケ側の理解が進んでいないから、いつもリハーサルに時間がかかる。
近年、交響楽団の経営が厳しいという話を聞くが、オペラやバレエを演奏させたら日本一、なんていうオケが誕生したら、絶対に安泰と思うのだ。
日本経済新聞2002年10月10日朝刊文化欄