福田 一雄(音楽監督)
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昭和6年(1931) 9月26日 福田武雄・知恵の長男として東京に生まれる。母の意向により5歳より絶対音感早教育を受け、幼児よりピアノをポール・ヴィノグラドフ氏(モスクワ音楽院教授)に師事する。昭和12年学習院初等科に入学、中学科、旧制高等科を経て 学習院大学政経学部に籍を置いた。
十代の終わりより音楽活動を開始し、東宝交響楽団(現、東京交響楽団)など数多くのオーケストラのピアニストを務める。1952年21歳の時に作曲した子供の為のバレエ「白雪姫」は今、尚多くのバレエスタジオのレパートリーとなっている。1957年「バレエ音楽の夕べ」を企画し、指揮者としてデビューした。
その後 数多くのバレエ団の公演を指揮している又、NHKの「世界の音楽」テレビ朝日の「題名の無い音楽会」などを指揮し、国内外のソリストと共演をしている。母校、学習院の音楽教育にも勢力的に参加し、初等科の合唱、オーケストラの育成、皇太子徳仁親王殿下もメンバーの一人で有る学習院OB管弦楽団の音楽監督、常任指揮者をつとめる。今年指揮者生活48年となる。
多方面ににわたる音楽ジャンルのうち、ライフワークとして関わってきたのがバレエ音楽の分野である。永年、多くのバレエ団との指揮活動の他、バレエ音楽の研究、および複雑多岐にわたる楽譜の整理と蒐集を行いバレエ界に多大な貢献をしている。
   受賞 「舞踊ペンクラブ賞」 「橘秋子特別賞」   
   著書 「バレエの情景」  
   現在新国立劇場バレエ研修所講師

「バレエ指揮の楽しみ」
バレエ指揮者になって、今年でちょうど四十年になる。もっとも、戦後すぐに、谷桃子バレエ団や貝谷バレエ団で、稽古ピアノを弾いたり、公演のピアノを受け持っていたころから数えると、もう五十年近くになる。一番多く指揮したのは、チャイコフスキー作曲の「白鳥の湖」。数えたことはないが、振った回数は千回を超えていると思う。ところがバレエの代名詞の様なこの作品は、演出や振り付によって多種多様ヴァージョンがある。曲順の入れ替え、リピート(繰り返し)やカット(省略)のあるなし、振り付けや踊り手の表現からくるテンポの違いなど、実に様々で、指揮者にとっても、オーケストラにとっても、やっかいな代物である。
三十年以上前のことだが、四日の間に六つのバレエ団が「白鳥の湖」を競演するという前代未聞の催しがあった。オーケストラは同じなので、客席からは見えないオーケストラピットの壁に、曲順やリピートの有無、カットの個所、テンポなどを書いて貼り、指揮棒で示しながら、六種の公演を無事にこなすことができた時は、さすがにほっとした。
バレエの音楽には三つの顔があると私は思っている。一つは総合芸術として、舞踊と音楽が協調して劇を進行させる顔。二つ目は、音楽が主体性を持って舞台をリードする顔。そして三つ目は、コンクールなどで踊り手が得意のテクニックなどを披露する部分で、ダンサーに応じて踊りやすくする役目である。同じ踊りでも、ダンサーにより、早め(あるいは遅め)のテンポを好んだり、曲の途中でストップしたり、急に速く(遅く)したりする。踊り手の癖を覚え、同じようにプレスして音楽作りをすれば、満足してくれる。
ダンサー達は、本番の調子の善し悪しにより、回転や跳躍を多くしたり、少なくしたりする、とっさの阿吽の呼吸で、踊りと音楽がぴったりあった時など、正にバレエ指揮者としての醍醐味を感じる。
アダン作曲の「ジゼル」は、ロマンティックバレエの名作で、「白鳥の湖」に次いで上演回数が多い。この第二幕に、ジゼルを愛した貴族アルブレヒトが、恋人の墓を探して登場する場面がある。通常は黒い大きなマントを羽織り、花束を抱えて出てくる。ある時、この登場の音楽になって、アルブレヒトの姿が舞台に現れたと思ったら、全く進まなくなってしまった。二歩進んで二歩下がり、三歩進んで三歩下がる、と言った状態が繰り返されたのである。私はとっさにオーケストラに指示して音楽をリピートした。マントの裾が舞台奥の装置に引っ掛かり、進めなかったのだ。そのうち何とか外れて、この音楽が終わるまでには登場できた。ほかにもドキッとさせられるハプニングが起きる。
しかし、観客の立場になってみれば、バレエの指揮者の席は、特等席のかぶり付きに位置している。色々あるが、バレエを楽しんで指揮している、と言うのが本当である。讀売新聞1997年5月17日夕刊

「バレエ指揮 情熱の半世紀」
指揮者になるつもりはなかった。音楽大学の指揮科を卒業するなど通常の指揮コースを歩んだわけではない。それがバレエ団の練習のためにピアノを弾いたのがきっかけで、日本にはほとんどいないバレエを得意とする指揮者となった。それからはや五十年である。

・ピアノで練習に参加

戦後間もなく、日本で本格的にバレエ団創設が始まったころ、レッスンでは生のピアノが使われていた。テープレコーダーなどがなかったからだ。私は、ひょんなことから後に大バレエ団を率いる谷桃子さんや貝谷八百子さんにこれを頼まれた。アルバイト感覚だったが、何カ月もレッスンに付きあうと一人ひとりのダンサーと息が合ってくる。各場面をどんなテンポで演奏すれば良いか、きめ細かに分かる。ふと「棒も振れたらいいな」と思った。ダンサーにも「あなたが指揮してくれたら安心」と望まれた。
先輩の指揮者に指揮法の基礎を教わって1955年、貝谷バレエ団の「コッペリア」公演で初めて指揮台に立った。道筋が普通と違ったのが、かえって良かった。欧州の劇場にはデビュー前の指揮者が、オペラやバレエのリハーサルのピアノを弾く制度がある。カラヤンやショティら著名な指揮者も皆、この「現場修業」をした。はからずも、私はこれと同じ経験ができたのだ。

・三つの「顔」がだいご味

以降、数多くの公演にかかわったが、心に残るのは、モノのない時代に皆で必死につくり上げた公演に多い。特に51年、貝谷バレエ団が歌舞伎座で上演した「シンデレラ」は思い出深い。45年にポリショイ・バレエ団が初演したザハ一口フ振付版を、乏しい資料をかき集めて舞台にのせた。楽譜は、モスクワの劇場からマイクロフィルムを借りて自分で引き延ばした。すると「ここでシンデレラがベールを取る」など向こうの指揮者のメモが残っていたりして大きな助けとなった。
この時の貝谷八百子さんのシンデレラは忘れられない。ことにシンデレラのポケットから、ぽろりとガラスの靴が落ち、持ち主が明らかになる場面の戸惑いや喜びの入り交じった表現。当時のダンサーは、高いジャンプなどのテクニックはそうなかった。けれども何かを観客に伝えようという情熱は、今の比ではなかったと思う。
バレエの指揮には三つの顔がある。まず前奏など演奏だけで舞台を盛り上げる場面がある。次に片足で30回以上も回るグラン・フエッチなど踊りの見せ場。踊りを支えることに徹し「最初の二回転はダブルにするから合わせて」「最後は八小節分リピートして」などダンサーの要望に柔軟に応える。三つ目は、音楽も踊りも共に重要な場面。この三つの「顔」を共にあるべき姿にするのがだいご昧だ。同じバレエ音楽でもコンサートの演奏の指揮は全く違う。

・研究にものめり込む

次第に楽譜の収集など音楽の研究にものめり込んだ。何しろバレエの楽譜は原則、出版されていない。書店で買える楽譜は指針であって、上演時のスコアは劇場やバレエ団によって違う。私は「白鳥の湖」のオーケストラ用スコアを五セット、「ジゼル」は四セット、「ドン・キホーテ」を三セット持っている。これらを読み解くと、面白いことが分かる。
例えば「パテ夕」というバレエの音楽には八人、「ドン・キホーテ」には十人の作曲家がかかわっていた。初演時は一人なのだが後世、改訂が繰り返されるにつれ多くの作曲家の手が入った。この部分は誰それの曲を無断で借用したなどの裏話もあまた浮かび上がる。残る指揮人生では、オーケストラを育てたい。私は主な演目のスコアが頭に入っている。だから今年七月、初の海外公演としてソウルで韓国国立バレエ団の指揮をした時、少しリハーサルを見ただけで、これは三幕を二幕仕立てにしてここをちょっと詰めてあるといった全体像が分かった。けれども日本ではオケ側の理解が進んでいないから、いつもリハーサルに時間がかかる。
近年、交響楽団の経営が厳しいという話を聞くが、オペラやバレエを演奏させたら日本一、なんていうオケが誕生したら、絶対に安泰と思うのだ。
日本経済新聞2002年10月10日朝刊文化欄
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